連載 西村尚子の生命科学探訪⑲
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昨年11月、中国の研究者が「受精卵にゲノム編集を施し、双子を誕生させた」と主張したことで、誰もが知るところとなった「ゲノム編集」という専門用語。この研究者は、「父親がHIV陽性だったことから、HIVが細胞に感染する際に利用するタンパク質(CCR5)の遺伝子をゲノム編集し、感染できなくした」としていますが、重大な倫理的かつ医学的問題を含むことから、日本では人文系を含む複数の学会が抗議声明を出す事態となりました。
科学技術において、あるブレイクスルーがもたらされると、その領域の研究は多方向へ飛躍的に進んでいきます。例をあげるまでもないのですが、生命科学では、遺伝子組み換え、単細胞クローン、ES細胞、iPS細胞など、いずれも基礎研究から応用研究、さらに産業化へと向かい、新たな薬、治療技術、農畜産物の創出などをもたらしています。
DNAの特定の塩基配列を書き換えるゲノム編集は1996年頃に開発されたものですが、当初は使い勝手が良いとはいえず、ごく一部の研究者が利用するにすぎませんでした。そこにブレイクスルーがもたらされたのは2013年。誰でも簡単に効率よくゲノム編集を施せるツール(CRISPR /Cas9)が登場し、瞬く間に普及していきました。
ほどなく、「塩基配列そのものではなく、塩基を修飾している化学基を編集することも可能なのではないか」と考える研究者があらわれました。DNAの塩基のうち、シトシン(C)には「メチル基」という目印がつけられることがあります(DNAのメチル化)。Cのメチル化には「遺伝子のスイッチをオフにする機能」があり、逆についていたメチル基がはずれる脱メチル化には「遺伝子のスイッチをオンにする機能」があります。一部の研究者は、「メチル基のつけはずし」を編集できれば、遺伝子スイッチを自在に操れるのではないかと考えたのです。
推測どおり、CRISPR /Cas9のゲノム編集システムを一部改変・流用することで、ねらった配列中のCをメチル化、あるいは脱メチル化できることが示されました。DNAのメチル化や脱メチル化のように、塩基配列を変化させることなく遺伝子発現を調節するしくみは「エピゲノム」と総称されているため、この新技術は「エピゲノム編集」とよばれるようになりました。
エピゲノム編集においても、ねらうべき配列を認識するためにガイド役のRNAを使うのはゲノム編集と同じです。異なるのは、ゲノム編集ではCas9を使ってDNAを切断するのに対し、エピゲノム編集ではDNA切断能を失わせたdCas9と、メチル化や脱メチル化のための酵素を使う点です。ガイドRNA、dCas9、エピゲノム酵素の一式(カセットという)を細胞内に送りこむと、ねらった配列のCだけにメチル化や脱メチル化が施され、特定の遺伝子のスイッチが制御できるしくみです。
このエピゲノム編集、どのように応用されうるのでしょうか。まず考えられるのは、エピゲノムの異常が発症や悪性化の鍵を握るとされるがんへの医療応用です。すでに、「カセットをウイルスベクターに組み込んで肺や食道のがん組織に感染させ、がんを抑え込む治療」などが模索されています。また、胎児期から乳幼児期のメチル化・脱メチル化異常でおきるとされる疾患(脂質代謝異常など)を対象に、エピゲノムを正常な状態に書き換える治療も考えられるといいます。
エピゲノム編集はDNAの塩基配列を変えずに済むため、遺伝子組み換えやゲノム編集よりも人体への安全性が高く、患者や一般市民の理解も得やすいだろうと考えられています。一方で、エピゲノムのメカニズムそのものに未解明の点が多くあり、エピゲノム編集技術にも不確定要素が残されていることから、慎重に基礎研究を進める必要もあります。医療応用のためのルール作りなども、これからです。
革新的な技術を社会に導入する際には、独断、暴走、楽観主義は許されません。研究リテラシーを逸脱する行為がただ一度でも発覚すれば、その研究領域そのものが否定されかねないからです。さまざまな可能性を秘めた、ゲノム編集やエピゲノム編集の技術。研究が中断されることなく進むよう願ってやみません。
西村尚子
サイエンスライター
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