広島カープの奇跡…赤ヘル誕生物語
アナザーストーリーズ 運命の分岐点『広島カープの奇跡~弱小球団 30年目の革命』の回、見た人はいますか? 特定の親会社を持たない市民球団を源流とし、他球団と比較して特異な歴史を持っている広島カープ。そんな広島カープが今回の話の中心でした。
忘れもしない1975年10月15日、万年弱小と言われた広島カープが初優勝しました。地元では、原爆で亡くなった人々の遺影を掲げ、涙を流し、町中が赤一色に染まってお祭り騒ぎ。創設以来ずっとBクラス、その年も評論家がこぞって最下位と予想し、ファンもまた、そんな奇跡が起こるとは、全く予想していなかった負け犬軍団。
まさかの革命を起こしたのは、球団初の外国人監督としてやってきた1人のアメリカ人監督…ジョー・ルーツ監督でした。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて球団に赤を基調とする新ユニフォームを提案しますが、既にシーズン用のユニフォームは出来上がっていて、変更可能なヘルメットの色だけ紺色から赤になったのです。
ところがこの監督…開幕早々4月27日の対阪神戦で審判の判定を巡って猛抗議を行うと、試合のボイコットという騒動を起こしてしまいます。この時、重松球団代表が試合続行を指示したため、試合中の介入に不満を持ったルーツはなんと4月30日に監督辞任。5月3日から後に名将と呼ばれるようになった古葉竹識監督が就任。本当に嵐のようにやって来て、球団に命を吹き込み去っていたのです。
この年のオールスターゲームの第1戦では山本浩二と衣笠祥雄が共に1試合2本塁打を記録し、「赤ヘル旋風」を巻き起こします。中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日…あの巨人との戦いに勝利し、球団創立25年目で初優勝を果たしたのでした。原爆投下から30年目、この街にしか起こりえなかった奇跡の物語…広島カープ初優勝。
球団創設から26年、それまでAクラス入りすら1度しかなかったチームの悲願達成にファンは興奮し、グラウンドへとなだれこんだのです。年間ホームラン200本越えを果たして赤ヘル軍団と呼ばれたり、江夏の21球と言われる伝説の投球があったり、鉄人衣笠がいたかと思うと、脳腫瘍で若くして亡くなる津田という忘れられない投手がいたり…沢山の思い出のある球団。
カープが財政難に陥ったとき、市民の『たる募金』が球団を解散危機から救ったという市民の支えとなっていた広島カープ。原爆を投下された広島の人たちにとって、広島カープは、いつしか心の支えになっていました。今ではカープ女子なるものまで登場していますが、広島生まれの私にとっては、やはり特別な球団なのです。
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