リーダーとして望まれるもの…チャーチル③
亡き父の背中を追って政治家になったチャーチルでしたが、65歳で首相に就任するまでには何度も失敗をおかし政治生命を失いかねない挫折も経験していました。なぜチャーチルは失敗続きでも諦めずに強い心を保つことができたのでしょうか?
チャーチルが33歳の時、彼の人生を変える女性が現れます。9歳年下の妻は、生涯に渡ってチャーチルに安らぎを与えてくれることになります。2人は5人の子供にも恵まれ、手紙は2人の間だけに使われた親密な呼び名が用いられるなど、名門貴族や政治家から連想する堅苦しさはみじんもありませんでした。家庭を得たことで、ますます仕事に打ち込むことができたチャーチル。
1914年、第一次世界大戦が勃発。イギリスはフランスなどと連合国の一員としてドイツに宣戦布告しました。36歳の若さで海軍大臣に抜擢されチャーチルは、ドイツに大打撃を与えるべく「ガリポリ作戦」を立案。しかし、イスタンブールを望むガリポリ半島に上陸を試みた英仏連合軍は6万もの犠牲者を出して大敗してしまいます。この事態を受けて、作戦の立案者であるチャーチルに非難が集中し、戦争中にもかかわらず辞任する事になってしまうのです。
大臣の座を追われたチャーチルは妻クレメンティーンの勧めもあって、田舎で静養することになります。やがてチャーチルは目に映る豊かな森や湖の風景を描き始めます。チャーチルは無心に何枚もの絵を描いていく中で、「絵の女神が私を救いに訪れた」と感じるようになり、やがて気力を取り戻すと再びロンドンに戻ることになります。この時40歳。
大臣を辞任し政治生命を絶たれたも同然だったチャーチルが選んだのは一兵士として戦場に向かうことでした。大臣まで務めた人物が最前線に立つのは極めて異例のこと。ところが、死と隣り合わせの塹壕の中でチャーチルは不思議な高揚感に包まれ、こんな事を話していました。
『防衛区域のただ中では土から死者の足やら服が飛び出していて、広範囲に墓が散らばっているようだし、どちらを見ても水や泥だらけだ。これに湿気、寒さ、あらゆるささいな不便が加わっているが、私はこの数か月感じたことのない幸せと充足を感じている。』
1918年11月ドイツの降伏で戦争は終わります。イギリスは勝利したものの90万もの戦死者を出し、膨れ上がった戦費が生活を圧迫していました。4年後の選挙ではチャーチルの所属する自由党は大敗し議席を失います。それでもチャーチルは諦めず、2年後の1924年恥も外聞もなくライバルの保守党にくら替えして出馬し、下院議員に当選していきます。そしてチャーチルにとって、生涯忘れられない嬉しいことが起きます。それは、父ランドルフと同じ財務大臣に就任したことでした。この時49歳。
第1次世界大戦で敗れたドイツは壊滅的な打撃を受け国民の生活は困窮を極めました。そうした中ヒトラー率いるナチ党が台頭。1933年ヒトラーはドイツの首相に就任し、2年後再軍備を宣言します。この時イギリスは、一旦は抗議をしたもののドイツの再軍備を追認しました。ドイツを封じ込めるのではなく譲歩することでドイツを取り込もうという考えだったのです。
しかし、チャーチルは違いました。1932年にドイツを訪問しナチ党が独裁への道を着々と歩んでいるのを目の当たりにしていたからです。1939年9月ナチス・ドイツがポーランドに侵攻。イギリス、フランスがドイツに宣戦布告しチャーチルは海軍大臣として内閣に戻りました。その僅か9か月後ドイツ軍は…海を挟んでイギリスと向かい合います。チャーチルが指摘した脅威は現実のものになったのです。
1940年5月、チャーチルの生涯で最大の出来事が起きます。ヒトラーの危険性をいち早く唱えたチャーチルが首相に任命されたのです。その時、チャーチルは、こう話しています。
『ついに私は全局面にわたって指導していく権力を握ったのだ。私は運命とともに歩んでいるかのように感じた。そして過去の私の生涯は、すべてただ"この時""この試練"のための準備にすぎなかった。』と・・・
・・・(つづく)
さてさて、久々の暗号問題ですが、ちょっと記事の書き上げに時間をとられてしまって、お馴染みの暗号問題に頼ってしまいました。
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